3月15日(金) 山弘(晴れ)
天気は晴れ、しかも平日の金曜日に釣りに行けることになった。行き先は山弘渡船。牡蠣ロープは引き上げが終わってしまったらしく、きれいになった小粒の牡蠣を50個ほど購入して釣りをすることにした。7時に私一人を乗せて出船し、保安学校寄りの2号に乗った。いつもの場所に釣り座を構えて釣りを開始した。当日は落ち着いて一つ一つのアタリに対応して釣りを展開しようと思った。期待の第一投はアタリはない。撒き餌はないが、放置された牡蠣ロープに付いている適当なものを気休めに撒きながら、釣り続けた。朝一の時間帯は外道の活性がなかったので、たぶん餌が足りなくなる心配はない気がしたので、途中からは撒き餌に牡蠣も追加した。フロートや牡蠣に付いていたイガイもパラパラ撒いたが、活性は上がらなかった。気長に一発のアタリを待った。筏周辺も探った。アタリはでない。そして・・・、1度のアタリもなく、16時を迎え納竿した。完封、いや完全試合を食らってしまった。吉田や青井にも釣り人はいたが、後日に釣果がブログに書いてないところを見ると、魚の活性が極端に落ちた日だったのだろう。
船頭さんに挨拶して16時過ぎに帰路についた。その時には当日の残念な釣行はもう頭になかった。それより釣行中にがじろうさんのメールにあった野村渡船の廃業のことが頭に浮かんだ。30年ほど前だっただろうか、当時の甲ヶ崎一番人気の渡船屋さんは吉岡渡船だったように思うが、人が多すぎて私は苦手だった。そこに野村渡船さんが開業された。親切な先代の船頭さんにも惹かれ。春によく通った思い出の渡船屋さんだった。長浜、千歳、ホームページを開くきっかけをもらったONOさんと出会った宮津の田井、そして野村渡船、次々なくなっていく。「思い出の釣り場と言えば、舞鶴のかかり釣り場の中心だった白杉はどうなったのだろう。いくつもあった渡船屋さんも確か一本松渡船だけになったはず。まだ営業されているのだろうか。小君の村江渡船はどうなったのだろう。」20台後半から始めたかかり釣りだが、私も昨年で60歳になった。30数年の月日が短く感じた。黒逢会の活動をしていたことが、鮮明に思い出された。心の中が寂しさ、焦りのような感情でいっぱいになった。「これからどうしたらいいのだろう。」
そのときふと言葉が浮かんだ。それは最近見ている「舟を編む」というテレビ番組で、主人公が言った言葉だった。彼女は「生きること」の定義を「変化すること」とした。私の趣味のかかり釣りは変化していない。だからさみしい思いが増えてきたのかも。そういえば、一昨年、さらにその前年にトシさんと行った木曽の渓流釣りは心底楽しかった。かかり釣りは未来の目標より、過去の思い出が増えすぎてしまったのかもしれない。やめたらいいのかもしれない。ただ、この釣りは好きなのでまだやめられない。でも何か変化しないと過去ばかりを見てしまう。そこにもう一つ、頭に浮かんだのが仕事だった。今の仕事はやりがいはある。だからブラックでも耐えられた。手を抜かず、自分の弱さと戦ってきた。そして、あと1年で定年を迎える。ただ、やろうと思えば、あと5年は無条件でできる。60を越えての職探しは大変だし、自分で見つける職より給与もいいだろう。65までやれるのは有り難い話だと思う。でも、あと1年でやめようと思った。今まで迷いはあったが、はっきりそう思った。いろいろ人生にはあったし、友と昔話をすることは楽しい。ただ、人は最後まで前を向いて進み続けることが、総括することより大事なのだろう。気持ちが穏やかになったころ、丹波にさしかかった。いつもは素通りする道の駅に入った。いろいろ見て、家族と自分にお土産を買った。釣行の最後によい時間を過ごせたと思った。
釣果:丹波の特産品